当時の
  タチカワの
  マーク

大正14年9月 改築当時店内南側の陳列
  大正14年、大丸ですら土間式商法を営んでいた当時に、文具界の心斎橋の本社は、画期的な洋風の店舗で、店内には大阪有力卸および東京メーカー製品を網羅。地方業者の仕入れに役立った。
                 大正13年12月 洋服新創設当時の店頭

創始者
立川 泰之助

   文房具宣博大会 自動車宣博の途中
大正14年 最初の東西共益会合併市
 
 朝は朝星、夜は夜星。
朝は暗いうちから起き出し、夜は星空を仰ぎながら遅くまで働いた明治の頃の丁稚奉公は、過酷なまでの重労働であった。

年間1800時間を目標にしている今日の日本を考えると、まさに隔世の感がある。
ましてや、給与以上に休日の多さを望む新人類にとって、卒倒しかねない生活といえる。
産業がまだ未発達で肉体労働に依存せざるをえず、貧しく、余裕のない当時であってみれば、いたし方ない面があったのは確かである。
ただ、こうした下積みの孜々営々たる働きのおかげで、近代化がなり、高度な産業社会と繁栄を謳歌する日本があるといえる。文具業界の発展またしかりである。
 厳しい労働の中で、刻苦勉励し、暖簾を分けてもらうなどして独立、その自営の気概たるや壮たるものがあったことだろう。

(株)オフィスマガジンの前身、文具界の創立者である、旧財閥 泉屋(旧・住友 現・住友グループ)の泉屋新造はわずか10歳の幼少にして改名し、立川泰之助として白水堂洋品店に奉公に出、明治30年、23歳で独立、日本で初めて文具店と名を付けたという。

ちなみに当時、現在でいう文具類は洋品雑貨店が扱い、文具店は筆屋といわれ、筆墨硯や和紙等を商っていた。
 また、大阪の小売店では誰も扱わなかった鉛筆、万年筆などの舶来文具を販売。
第一次世界大戦が勃発し、輸入文具が極度に不足、1グロス60〜80銭の舶来ペン先が3円から5円に暴騰する事態を迎えた。

この困窮に、国産文具の権威高揚とアピールのため、心斎橋の本社社屋を会場に文具界主催で(文具界は明治42年10月、立川泰之助の手で創立された)「国際文具展覧会」を開催。大正4年のことだった。
現在のオフィスフェアの前身的催しである。

 3年後には、大阪全業界人が株主となり、四世福井庄次郎氏(福井商事、後のライオン事務器の社長)を社長、当時の有力者を重役として日本ペン先(株)が設立された。

間もなく泰之助が社長となり、後の立川ペン先、エレガントペン先がうまれる。また、大阪の有力小売店で組織する親睦団体、研精会のリーダーであり共同仕入れ、共同販売等も行っている 。

 さらに文具界主催で第1回関西文具売立会を岸松館で開催したが、これは業界初の全国見本市という快挙であった。
第1回東西共益会合併市が大阪の名月楼で開かれたが、大阪のすべての準備は立川泰之助の手で運ばれている。

立川泰之助の事跡は、我が国の文具業界の発展の基盤造りそのものであり、丁稚からたたきあげた立志伝中の人である。それは一人泰之助にとどまらない。
メーカーにも卸、小売りにも数多くの大英雄、小英雄がキラ星のごとくいたであろう。
 また戦国の世の群雄割拠の中で、淘汰の波に呑みこまれる人、埋もれ草のまま一生を終わった人は、数限りなくいたものと想像される。
それは文具業界の萌芽・黎明期から発展期までのドラマであり、人間喜劇の第一幕第二幕だろう。
 そして、第二次世界大戦後立川ペン先(株)の代理店は全国6000店にまで拡がり発展した。
(株)オフィスマガジンの前身「文具界」
創始者 立川 泰之助
初代社長
立川 俊武
現取締役社長
立川 俊一
現専務取締役
JOCタチカワ(株)取締役社長
立川 俊彦
 
 
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